パキスタン滞在記その1~空港の洗礼と不穏なトンビ~

パキスタン さこまよについて
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こんにちは!さこまよです。
普段は旅行ガイドやオススメ旅行グッズなどをご紹介している本ブログですが、今回から、私が子供のころに住んでいたパキスタンでの生活の記録を綴っていきたいと思います。
私がパキスタンに住んでいた時からすでに20年が経っているので現在の状況と異なる部分もあるかと思いますが、「地球上にこんなところがあるのか!!!」と子供ながらに思った衝撃的な体験を面白おかしくお伝えしていきたいと思います。

なお、パキスタンの状況は20年前と文化的にはさほど変わっていないことが、2年前までパキスタンに住んでいた両親の話からも明らかになっているので、これからパキスタンに行ってみようという奇特な方のご参考になれば幸いです。

パキスタン風景

パキスタンってどんな国?元在住者が語るリアルなパキスタン事情

いざ、パキスタンへ!

小学生だった私はある日、父から呼び出され、こう告げられた。
「パキスタンに住むことになった」
パキスタン??どこだろう、それは。
聞いたことがあるようなないような国の名前。
聞くと、インドの隣にある、イスラム教という宗教の国ということだ。
イスラム教には馴染みがなかったが、教科書でよく見るような、被り物をした女性たちがたくさんいるらしいとのこと。
それまで、オーストラリアに在住していた私たち家族は、海外生活そのものには慣れているというものの、得体のしれないその「パキスタン」という響きに、何となく不穏な雰囲気を感じ取り、言いようのない不安に襲われたのだった。

とはいえ、世間知らずだった私は、新たな地に赴くことにワクワクもしていたし、期待と不安を入り混じらせながらオーストラリアの地を後にした。

モスク

イスラム教ってどんな宗教?概要と歴史をわかりやすく解説します!

空港の洗礼

タイ航空に乗り、バンコクで乗り継ぎをして合計10時間以上。
父の仕事上の転勤に帯同しての移住であったため、赴任の際は家族もビジネスクラスに乗せてもらえた。
後から考えると、広いシートと美味しいごはんに最新映画を楽しめる機内でのひと時は、これから迎える衝撃の日々を前にした最後のご褒美だったのかもしれない。

カラチ国際空港に到着して一番に感じたのは、鼻を衝く、すっぱい、饐えたような臭い。
「くさい!」
妹と二人で鼻をつまみながら騒ぎ回る。
そして、入国審査に並ぶ人たちの、殺伐とした雰囲気。
それまでいたオーストラリアは、良くも悪くも田舎で、必ず入国審査のおじさんは笑顔で挨拶をしてくれていたのに、ここの人たちはジロジロと無表情に、なめまわすように私たちを見てくるのだ。
「怖い・・・」
人一倍臆病な妹は母の後ろにピッタリくっついてオドオドし始める始末。
空港にいる人みんなが泥棒みたいに見えた。

荷物の回転台から荷物を受け取ると、父の職場の世話役の若い男性職員、中井さんが迎えに来ていた。
中井さんは、早口でよくしゃべり、流ちょうなウルドゥー語でまとわりついてくるポーター(荷物持ち)を追い払っていた。
どこか陰のあるニヒルなお調子者、という感じの人だった。

そして、いよいよ空港の外に出た。本当の衝撃はそこからだった。

到着ロビーを出て、空港の車寄せに出たとたん、びっしりと、多くの男たちの人垣で柵が覆いつくされていたのだ。
どこを見ても、顔、顔、顔。
薄汚れた裾の長いシャツにコットンのズボンを合わせたパジャマのような民族衣装(シャルワールという)を着た男たちが動線の柵を囲って何重にも押し寄せていた。
「ひっ」
その光景を前に、怖くて怖くて絶望的な気分になった私は、もう既に、この時点で引き返してオーストラリアに帰りたくなっていた。

私たちを見るや否や、男たちは一斉に大声で何事かを叫び、私たちが柵の外に出るとすごい勢いで私たちの周りを取り囲んだ。
また、さらに強く鼻につく強烈な臭い。
私たちを中国人だと思ったのか、中国語を口真似してからかってくる輩もいた。

さらに追い打ちをかけるように、私と同じか、もっと幼いと思われる子供たちがワッと群がってきて、何事かを叫びながら父や中井さんが持つスーツケースを我先にと奪いに来たのだ。

中井さんが強い口調で
「ナヒンナヒン!!ナヒンナヒン!!」(NO!NO!の意)
と大声で怒鳴りつけ、子供たちを追い払った。

この子供たちは、荷物を運んでチップを貰おうとしていたのだった。
しかし、ひとたびチップをあげようものなら、水面に浮かび口を開ける鯉の群れに投げられるパンくずのように、取り囲まれて身動きが取れなくなってしまうので、決して相手にしないように、と後になって中井さんに教えられた。

衝撃的な恐怖を覚え、母にしがみつく私と妹。
食われる・・・と思った。
ズンズン先に進んでいく中井さんを必死に追いかける私たち家族のみんなが度肝を抜かれていた。

衝撃のカラチの町

キンキラキンのバス

やっとの思いで迎えに来ていた車に乗り込み、家に移り住むまでの仮住まいとなるホテルに向かった。
その道中でも衝撃は続いた。

まず、車の多さと、その車たちが全くもって車線を守らず、我先にと追い越せ追い抜けのカーチェイスをしているかのような運転をしていることに驚いた。
本来3車線であろう道路が、なぜか4車線になったり5車線になっていたりした。

どの車も無意味にクラクションを鳴らしまくり、バスやトラック、リキシャという3輪のオートバイに簡単な座席が付いた乗り物の運転手たちが何やら大声で怒鳴りあっていた。

どの車もスピードを出し、頭がガクンガクンと揺れ、例えるならディズニーシーにあるインディージョーンズのアトラクションに乗っているようだった(この頃はまだディズニーシーはなかったけども)。

呆然と車窓から外を眺めていると、目に飛び込んできたのは、キンキラキンのバス!!
「パラリラパラリラ・・・」と、日本の暴走族のような音の派手なクラクションを鳴らしまくり、すごいスピードで私たちの車を追い抜いて行ったバスには派手な装飾が施され、見たこともないような柄や鏡細工のようなアクセサリーが付けられていた。

もう一つ驚きだったのは、バスの積載量を優に超えた乗客の数。
車内から乗客があふれ出し、ドアがないバスの入り口に捕まって立ち乗りしている人もいれば、どうやって上ったのか、屋上にまで人が乗っていたのだ。
屋上に人が乗りすぎていてバランスを崩して今にも横転しそうなバスまであった。

中井さん曰く、日本などの国から中古でバスを買い、そのバスにバスの持ち主が思い思いに装飾を施すのだと言う。派手であればあるほど良く、みんな自分のバスを自慢に思っているのだとか。

牡牛と乞食

赤茶けた風景と、砂ぼこりの舞う街並み。
陸橋を渡る際に眼下に広がるバラックの家々(後にスラム街だと分かった)。
今までに見たことのないような風景を前に、なんだかすごいところに来てしまった、と、子供ながらに絶望感に襲われたのを今でも鮮明に覚えている。

信号待ちの間、車に交じってのんびり歩く痩せこけた牡牛の群れが横を通りかかった。
「町中に牛がいるーー!」と驚き、ふいにテンションをあげた私たち姉妹だったが、次の瞬間、あぜんとした。
牛の群れを追うように、小さい子供たちがボロボロの服を着て、ごみを拾っていたのだ。
ごみ袋を引きずりながら、小さい女の子と、さらに小さい男の子、全部で4人くらいだっただろうか、得体のしれないものを拾っては口にいれたり、ごみ袋に入れたりして歩いていた。
全員、無表情ながら熱心にゴミを物色し、裸足で歩いていた。

「ストリートチルドレンだね」
と母がつぶやいた。

中井さんによると、パキスタンではストリートチルドレンも珍しくないという。
ストリートチルドレンという親のない子供たちがいるということは、テレビなどでは知識として知っていたが、自分たちと同じくらいの年頃の子供たちが、ごみを拾いながらさまよっている姿を実際に目の前にすると、幼いながらもショックを隠し切れなかった。
胸を痛めていたのもつかの間、さらなる衝撃の瞬間が訪れた。

信号待ちをしていると、ふいに
「コンコンコン」
と、外から車の窓を叩かれた。
なんだ?と、叩かれた方に目を向けると、車内の家族一同、絶句した。

上半身が裸で、片方の腕がなく、頭がボサボサの男が、外に立ち尽くしてこちらを伺っていたのだ。
寄りにも寄って、手のない腕を上にあげ、こちらによく見せるようにして立っている。
腕がある方の手を口元に持っていき、悲しげな表情でしきりに何かを訴えていた。

「いやだああ~~」

驚いて泣きだす妹。
私も怖くて母親にしがみつき、目を伏せた。

中井さんは事も無げに言った。
「あ、絶対窓を開けちゃだめですよ。間違っても何もあげちゃだめです。顔を覚えられて囲まれますからねえ、あはは」

信号待ちの間には、次から次へと、乞食がやってきた。
赤ん坊を抱いた母親(イスラム教だから顔を隠しているが、これがさらに私たちの恐怖をあおった)、腰から下がなく、台車を手で漕いで移動している男などなど。

中井さんが言うには、乞食は儲かるビジネスらしい。
イスラム教徒の教えに、「喜捨」というものがあり、金持ちは積極的に貧しいものに施しをすることが美徳とされているのだそうだ。
見ていると、他の車は乞食に何かをあげている様子であった。
何でも、乞食の元締めがいて、朝になると乞食たちを所定の場所に置いていき、夜になると乞食たちを回収をして、施しを受けた分を儲けとするのだという。

乞食ビジネスで大御殿を築く者もいるとのことだ。
また、当の乞食のほうも衣食住には困らないため、乞食として食べて行けるように、わざわざ自分の子供の手を切り落としてしまう親もいるのだと言う。

不穏な空

アヴァリ・タワーズ・ホテル

やっとの思いで、宿泊先のホテルに到着した。
私たちが最初の住居としたのが「アヴァリ タワーズ ホテル」というところだった。
父の前任者の家を引き継ぐことになっていたのだが、仕事の引き継ぎが終わるまでは前任者がまだ住んでいたので、しばらくはホテル住まいだったのだ。

アヴァリホテルは、街の雰囲気とは打って変わって、大理石の床にシャンデリア、高い天井、といった洋風の内装に、エアコンの効いた豪華なホテルだった。

プールもあり、子供だった私は嬉しかったのを覚えている。

その日の夕食はホテル内で済ませたのだが、「FUJIYAMA」という日本食レストランがあり、そこで食べたラーメンのような、天ぷらそばのような日本食は、いかにも外国人が作った日本食「もどき」といった感じで、美味しいとは思えなかった。
(不思議なもので、カラチ生活が長引くとたまに食べに行きたくなってしまうのだが)

そんな豪華なホテルの高層階にしばらく滞在していたのだが、カラチに着いた当日に窓から見上げた空がトンビだらけだった時は、幼いながらにゾッとしてしまい、これからのカラチ生活を暗示しているようで不穏なものを感じざるを得なかったことを、強烈に覚えている。

記憶喪失

実は、私は、このトンビの記憶を最後に、そこから数か月の記憶がない。
今はもう20年以上経っているから覚えていない、ということではない。
当時から既に記憶がなかったのだ。
カラチに来て半年経った頃、妹と二人で、帰国してしまった学校のクラスメイトの話をしていた時、私は全くそのクラスメイトを覚えていなかったのだ。

名前も、顔も。
数少ないクラスメイトであったので、「何回か話したことあるじゃん」と妹に言われるも、その当時から全く思い出せなかったのだ。
遊んだこともあるのに、その記憶すらない。

子供ながらに、我ながら怖くなったのを覚えている。

おそらく、これがカルチャーショックという物だったのだと思う。

人生の土台

このようにして幕を開けた私のパキスタン、カラチ生活はその後の私の人格を形成する上で大きな転換点となった。
私の人生の土台となる様々な事件が起こった。

今振り返ってみても、この頃が一番、今までの人生の中で辛い時期だった。
それは、パキスタンに住んでいたことそのことが原因だったこともあるし、パキスタンに住んでいたからこそ、私の未熟さも相まって本来味わわなくても良かった苦い経験をしてしまったこともある。
わずか10歳で、30を超える私の人生で一番つらい経験をたくさんしてしまったことは、糧にもなったし、足枷にもなった。

今後、いくつかの回に分けて、特徴的な事件やできごと、パキスタン生活のアレコレをご紹介していけたらと思います!!

おまけ:パキスタンの描写がある書籍

最後に、パキスタンをより深く知りたい人のために、オススメの書籍をご紹介します。

パキスタンを舞台にした小説や紀行文は結構あります。
パキスタンの雰囲気をよく表している書籍をいくつかピックアップ!


パキスタンを知るための60章 エリア・スタディーズ

こちらはパキスタンを知るための基本的な事項が分かりやすく網羅されています。パキスタンに関するこういった本は少ないので貴重!

 

深夜特急は旅好きの方にとってはバイブル的紀行文だと思いますが、この深夜特急の第4巻からパキスタンに入ります。
とっても良く描写されていて、生き生きと情景が伝わってきます。

 
 

沈まぬ太陽は、山崎豊子氏作の長編小説ですが、主人公が冷遇されて一時期カラチに左遷されてしまうのです。
そんな左遷先になるようなひどいところに住んでいたのね、私たち。と少し笑ってしまいましたが、描写はリアル!

いまや司会者としてバラエティーに欠かせない存在の有吉さんが最初にブレイクしたきっかけとなった電波少年でのヒッチハイク旅を書籍にしたもの。
パキスタンにもちょろっと行ってます。

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