イスラム教ってどんな宗教?概要と歴史をわかりやすく解説します!

モスク イスラム教
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こんにちは、さこまよです!
今回は、パキスタンというイスラム教国に3年間住んでいたさこまよが、日本ではあまり馴染みのない宗教、イスラム教について解説したいと思います♪
また、私は歴史が大好きで、イスラムの文化にも興味を持ち、大学において興味の赴くまま、イスラム関係の授業を受けておりました。

最近では日本でも「ハラル対応」をしてくれるレストランが増えたり、お祈りの部屋を用意する公共施設ができたり、イスラム教への理解が少しずつ進んでいる様子。

2020年には東京にオリンピック・パラリンピックがやってくるので、ますます海外からの旅行者が増えるでしょうし、2018年には「出入国管理法改正案」が政府で閣議決定されたことで、今後海外からの労働者が増えていくと考えられています。
それに伴い、より多くのイスラム教徒の方が来日される可能性も上がってくるわけです。

また、旅好きの方々は、ベールに包まれ、エキゾチックで刺激的に感じられるイスラム教の国々に興味をそそられていることと思います。

しかし、日本においては、まだまだイスラム教の実態についてよく知られていなかったり、イスラム=テロと解釈されることが多くなっています。
今回は、イスラム教やイスラム地域で起きていることを歴史を紐解いて分かりやすく解説していきますので、イスラム教について正しい知識を身に着けて、訪日ムスリムの方をもてなしたり、イスラム教国への旅行をより深いものにしていただければ幸いです♪

パキスタン風景

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イスラム教ってどんな宗教?

コーラン

イスラム教とはそもそもどんな宗教なのでしょうか?

イスラム教の概要

  • 7世紀に預言者ムハンマドによって創始された
  • ムハンマドが天使ガブリエルの声を聴き、唯一神アッラーの預言者として信仰を広めたことが始まり。
  • イスラム教徒=ムスリムは唯一神(アッラー)を信じて帰依し、神の教えを日々実践して生活する。
  • ムスリムには聖典コーランに基づく信仰(六信)と信仰の告白、礼拝、喜捨、断食、聖地メッカへの巡礼からなる5つの基本行為(五行)を守る義務がある。
  • 社会生活はコーランとハディース(ムハンマドの言行録)に基づくイスラム法=シャリーアによって営まれる

簡単に特徴を挙げるとこんな感じです。
その他、よく知られているのは、以下のような特徴ですね。

  • 様々な宗派があり、代表的なのがスンニ派とシーア派
  • 1日5回の礼拝
  • ラマダンという断食の期間がある
  • 一生に1度はメッカに巡礼に行く
  • 豚肉が食べられない、アルコールはNGなど食に関する決まりがある→「ハラルフード」はムスリムが食べられる食事のことを言う。
  • 一夫多妻が認められている
  • 女性は肌を隠すこと

これらは全てコーランやハディースに規定されています。
そもそも、コーランは物語調になっているキリスト教の聖書とは違い、生活の行動規範を記したものなのです。

イスラム教の行動規範には意味がある

イスラム教の教えを断片的に見ると、不思議で異様に思えますが、実は一つ一つに意味があります。
コーランは行動規範を記したもの、と述べましたが、実はこれは生活の知恵やイスラム教を信じる人たちが安全に生活できるように、当時の中東の自然状況や社会状況を反映した理にかなった教えなのです。

例えば。

  • 一夫多妻制→戦争で夫を亡くした未亡人を助けるため、一人の男性が多くの女性の面倒を見られるようにするため。
  • 女性が肌を隠す→血気盛んな男どもから女性自身の身を守らせるため。
  • 豚肉を食べるのを禁止している→諸説ありますが、中東の暑い地域では豚は傷みやすく、またよく加熱しないとお腹を壊してしまうから。
  • お酒を飲んではいけない→お酒で失敗したり暴力沙汰を起こす人が日本でも多いことから、何となく想像できますね。

人はもともと弱い生き物。
特に、中東の厳しい気候の下、文明も今ほど発達していない中では、気を付けて生活をしないと簡単に命を落としかねない環境でした。

そんな中、人々の経験に基づく生活の知恵を集めたものがコーランやハディースであり、それを守って生きていれば幸せに長生きできますよ、ということを教えてくれていたのです。

そう考えると、ムハンマドは身の回りの人や人々が少しでも豊かに幸せになることを願っていただけなのではないかなあと思えてならないのです。

なお、現在では全世界に16億人以上のムスリムがいると言われており、インドネシアやパキスタン、バングラデシュ、インドなどに多くの人口がいます。
また、ヨーロッパに4千万人以上、中国にも2千万人以上が暮らしていると言われています。
(参考:一般社団法人ハラル・ジャパン)

イスラム教の歴史

メッカ巡礼

メッカ巡礼

それでは、イスラム教はどのようにして生まれたのでしょうか。

預言者ムハンマド

預言者ムハンマドは570年頃にアラビア半島のメッカに生を受けました。
このムハンマドは、神様ではありません。
あくまでも「預言者」として、大天使ガブリエルから唯一神アッラーの啓示を授かり、その啓示を広めるために宣教活動を開始した人物です。

メッカはムハンマドの生誕地であり、神からの啓示を授かった場所として聖地となり、ムスリムは1日に5回(シーア派は3回)、メッカの方向を向いて礼拝をします。
また、ハッジと呼ばれる、メッカへ巡礼することが一生に一度の義務とされています。

ムハンマドはメッカで布教を開始しましたが、メッカの人々は彼の言葉を信じようとせず、迫害を受けます。
ムハンマドは622年、メッカを脱出して、メディナに移りました。
これを「ヒジュラ(聖遷)」と呼び、622年がイスラム歴の元年となっています。

メディナでは受け入れられたため、メディナでイスラム教の共同体「ウンマ」を築きました。
その後、徐々に信者を増やし、ついに630年、メッカを征服します。

ムハンマドはメッカ征服後632年に没しましたが、この頃はアラビア半島のほぼ全域にイスラム教の勢力が広まっていました。

なぜ、イスラム教がこうも急速に広まったのかということには諸説ありますが、もともとあったキリスト教やゾロアスター教、ユダヤ教などと違って当初は聖職者も神殿もなく、アッラーという神様ただ一人を信じればよく、神の前ではすべてが平等であったから、と言えます。

また、後述しますが、イスラム教はほかの宗教にも寛容で、人頭税すら支払えば信仰も容認されていました。
そのため、異教の地でも受け入れられやすかったと考えられます。

正統カリフ時代

ムハンマドの死後は、後継者カリフに率いられて教団を拡大し、第二代カリフのウマルの時代にアラブ人諸部族はイスラム教に改宗し、アラビア半島の統一が実現しました。
また、第三代カリフのウスマーンの時代に、ムハンマドの言行録としてコーランがまとめられました。

この、ムハンマド死後632年から661年のカリフによる勢力的な布教拡大の時代を「正統カリフ時代」と呼びます。

その後、積極的な異教徒との聖戦(ジハード)が展開され、西アジア全域が支配下に収められ、イスラーム帝国として、ウマイヤ朝、アッバース朝などの王朝が創建されました。
※なお、このジハード、とは本来は「奮闘、努力」という意味がありますので要注意。

イスラム教の分裂

力強いカリフの下、イスラム教の拡大が進められていきましたが、やがてカリフの地位やイスラムの教義を巡って内部で対立が起こるようになりました。
現在まで続く特に大きな分派が、第4代カリフのアリーの子孫のみを正統な指導者と信じる「シーア派」があります。
分派が分かれていき、残った本体を「スンナ派」と呼びます。スンナ派が多数派で、全ムスリムの9割を占めます。
なお、スンナ、とはムハンマドの言行に従う人、の意味です。

その他、シーア派から分かれた十二イマーム派やイスマーイール派、ハワーリジュ派などがあります。

イスラム神秘主義

イスラム教の広がりとともに生まれ、踊りや神への賛美を唱えることで神との一体感を求める民衆的な信仰で、8世紀ころに始まりました。
形式的なイスラム法の遵守を主張するウラマー(宗教学者)が勢力を握ると、これに批判する形で広まったのが、イスラム神秘主義(スーフィズム)です。
この神秘主義はより感覚的でわかりやすかったため、急速に勢力を拡大し、神秘主義教団が結成されていきました。
また、これと相まって、イスラム商人の活躍もあり、さらに広い範囲にイスラム教の教えが広まったと言われています。

歴史に翻弄されたイスラム教徒

イスラム教の子供

さて、イスラム教の概要と歴史をお伝えしました。
ここからは、イスラム教と併せて語られることの多い事実について、紐解いていこうと思います。
現在までも尾を引く課題にも多く関連するので、正しい理解が必要です。

イスラム教とエルサレム

ムハンマドが信仰を広めたメディナはイスラム教にとって第二の聖地とされ、メッカと併せて「二聖都(アル・ハラマイン)」と呼ばれます。

そして、メッカ、メディナの他に、イスラム教にとっての聖地がもう一つ、あります。
そう、「エルサレム」です。
エルサレムは、ユダヤ教やキリスト教にとっても聖地であるため、歴史的にエルサレムを巡って様々な対立が生じました。

そもそも、なぜエルサレムがイスラム教の聖地とされたのでしょうか?

イスラム教の聖典であるコーランは、そもそもユダヤ教やキリスト教を下敷きにして成立したものであり、ムハンマドはモーゼやイエスに続く最後の預言者として、これまでの預言者の教えを完成させるために現れたと考えられています。

コーランによると、ムハンマドは天使ガブリエルに導かれて空を飛び、エルサレムを訪れたと言います。
このため、エルサレムはメッカとメディナに次ぐ聖地とされているのです。

上述したように、イスラム教では、ユダヤ教とキリスト教は、イスラム教の母胎となった宗教として一定の評価を与えています。
そのため、イスラム帝国下では、ユダヤ教とイスラム教の信者は「啓典の民」と呼ばれ、人頭税(ジズヤ)を支払えば信仰と財産の安全が保障されていました。

その後も、エルサレムではユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地として各宗教の住民が共存していました。

しかし、イスラム王朝の支配下に置かれた聖地エルサレムを奪還すべく、キリスト教のローマ教皇の命に寄る聖地奪還のための十字軍遠征が、聖地エルサレムを巡って、その後のキリスト教とイスラム教の対立の構造を作るきっかけとなってしまいました。

以後、十字軍の遠征は度々行われ、イスラム教側もジハード(聖戦)としてこれに対抗しました。

オスマン帝国解体とパレスチナの動乱

その後、イスラム王朝であるマムルーク朝によりエルサレムの王都であるアッコンが1291年に陥落しするとキリスト教側はパレスチナ周辺の拠点を全て失い、十字軍の活動は終了しました。

また、その後、オスマン帝国による支配が拡大していましたが、ユダヤ人の間では祖国の復興を目指す政治的運動がさかんになっていました。これを「シオニズム」と言います。

イギリスは、第一次世界大戦に、オスマン帝国に対抗するべく、中東でアラブの諸民族に対して、パレスチナにおける民族国家の設立を約束しました。
しかし、一方で、イギリスは戦争に必要な資金をユダヤ系の資本から受けるために、パレスチナにユダヤの国を建国することを認める二枚舌外交を行っていたのです。

さらに、イギリスはオスマン帝国を破り、英仏がオスマン帝国の領土を分け合う「サイクス・ピコ協定」を結びました。
オスマン帝国は解体し、イスラム世界でまとまっていた中東の国々はヨーロッパ諸国により国境線を引かれ、現在のイラク、シリア、ヨルダン、エジプトといったように分かれて独立することになりました。

パレスチナに話を戻すと、第一次世界大戦後はパレスチナはイギリスの保護領となりますが、ユダヤ人が続々と流入し、さらに、第二次世界大戦時のナチスによるユダヤの迫害を経て、ユダヤ人はさらにパレスチナに希望を見出すように押し寄せる結果となりました。

第二次世界大戦後、国連はパレスチナを東西に分割し、アラブ人とユダヤ人の共存を図ろうとしますが、ユダヤ人は一方的にイスラエルの建国を宣言ました。
これに反発したアラブ諸国が宣戦布告し、1948年に第一次中東戦争が起こりました。

その後、第二次、第三次中東戦争を経て、イスラエルは領土を広げ、エルサレムを首都と宣言しました。

パレスチナの住民は難民としてレバノンやヨルダンに追いやられ、難民の一部はパレスチナ解放機構(PLO)を創設します。

イスラエル領内でもパレスチナ住民の抵抗運動(インティファーダ)が起こり、テロなどにエスカレートしていきました。

アメリカの仲介でPLOとパレスチナの間でオスロ合意が結ばれ、パレスチナの一部が自治政府の下に移管されるも、ハマスなど、PLO以外の組織によるテロが頻発し、依然として混乱が続いています。

一方、イスラエルと仲の良いアメリカはイスラエルを支援しており、これに対して中東イスラム諸国は反発心を深めていきました。

冷戦下での大国の介入~イスラム過激派の台頭

第二次世界大戦後は、アメリカとソ連による冷戦時代となりました。
アメリカとソ連(共産圏)との闘争に巻き込まれた中東は大国の介入を受け、イスラム世界は欧米諸国に翻弄される歴史をたどることになりました。
そのため、イスラム世界では反欧米の過激派が台頭してきました。

具体的な経緯は以下のとおり。

アフガニスタン紛争

1978年にはアフガニスタン紛争が起こります。
アフガニスタンでは共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党による政権が誕生すると、これに対抗する武装集団の蜂起が相次ぎ、人民民主党はソ連に軍事介入を要求しました。

これに対し、アメリカのCIAなどがソ連と人民民主党に抵抗するムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)を極秘に支援。
このムジャーヒディンには、あのウサマ・ビン・ラディンも含まれていました。
そして、CIAなどがこのムジャーヒディンを訓練・育成し武装化させ、これがアルカイーダの起源となります。

なお、ムジャーヒディンを理論的に指導したのがムスリム同胞団です。

イラン・イラク戦争

オスマン帝国がヨーロッパ諸国により解体されたことは前述したとおりですが、オスマン帝国の支配地だった領域には様々な民族や領土問題が残された形となりました。

そんな中、イスラム教の部族の中で台頭したのは、ホメイニー率いるイラン政権フセイン率いるイラク政権でした。
イラン政権はシーア派、イラク政権はスンナ派であったのですが、スンナ派とシーア派という歴史的に古い対立を持ち出し、両者は戦争を開始します。
戦争の原因は石油の輸出権でしたが、実は、この背景にはアメリカとロシアのそれぞれの支援があったのです。
フセインはイランの石油輸出権を奪うため、イランを奇襲攻撃しますが、それを支援していたのがアメリカとロシアでした。
アメリカは中東で利権を拡大するため、イランのホメイニによる他宗教への排他的思想(イスラム原理主義)を嫌い、イランとイラクの対立に乗じてイラクのフセインを支援したのです。

戦争の結果、イランのホメイニはイランから亡命しました。
しかし、イラクは思ったように戦果を挙げることができず、アメリカから借りた多額の債務を返済することができなくなりました。

湾岸戦争

イラクは財政難に陥り、それを打開すべく、クウェート侵攻に踏み切りました。
実はこの裏では、フセインはアメリカに事前に黙認を取り付けたと主張しています。
しかし、冷戦終結後の世界戦略の中で、アメリカは国際平和の秩序を乱すフセインの行為を許すまじ、として、フセイン政権に対し、湾岸戦争に踏み切りました。

クウェートは解放されましたが、フセイン政権は打倒されず、このことはアメリカの後ろめたさが影響しているのではという憶測もあります。

さらに、アメリカは湾岸戦争に踏み切る際、イラクによるクウェートに対する残虐行為について訴えていますが、これがプロパガンダだったということが発覚しています。
アメリカの真意は実は冷戦によって財政危機に陥ったことから、それを打開すべく、中東の石油事業を掌握することにあったのです。
イランのホメイニ、イラクのフセインを排除することで、結果的にアメリカはそれを実現したと言えます。

以上、こうした一連のできごとから、中東のイスラム世界では、欧米大国に対する不信感が募っていったと言えます。

9.11同時多発テロ~イラク戦争

一方、前述したウサマ・ビンラディン率いるアルカイーダは、メッカとメディナを領内におさめるサウジアラビアがアメリカ軍の進駐を許したことで、反米意識を高めていました。

そして、ついに2001年9月11日、アメリカ同時多発テロを起こすのです。

これに対し、アメリカはアルカイダとウサマ・ビンラディンをかくまうタリバン政権への軍事攻撃を始め、アフガニスタン紛争が勃発しました。

タリバン政権は打倒され、その後は個々の組織に分裂して活動を行うようになったとされています。

同時多発テロ後、アメリカはアルカイダとイラク政府がつながっていると考えるようになりました。

元々、イラク戦争後、イラクと国連の間では大量破壊兵器を全て破棄するという決議を交わしましたが、その後、イラクは国連の査察を拒否し、これ以降、国連諸国はイラクの核兵器保持に対する不信感を募らせていました。

もしイラクが大量破壊兵器を持っているとしたら、同時多発テロを受けたアメリカとしてはイラクを放置するわけにいきません。

査察の結果、破壊兵器は実際には見つからなかったのですが、それでも疑念を深めるアメリカは、フセインとアルカイダが関係しているという大義も付け加え、武力行使でイラク政府に制裁を加えることを決めました。

この時、フランスやドイツ、ロシア、中国は軍事介入に反対しましたが、アメリカはイギリスと同盟を組み、日本からの後方支援を受けて空爆に踏み切りました。

フセイン政権は打倒されましたが、イラク国内では反米テロが頻発。
そして、結局、大量破壊兵器の存在を証明することもできず、アメリカはイラクから撤退。
イラクはその後も治安が安定せず、スンニ派とシーア派の対立が激化するなど、内戦状態となっています。

イラク戦争後の政情不安

イラク戦争後、フセイン政権による支配がなくなると、中東では様々な組織が乱立するようになりました。
イスラム国(ISIL)など、もともとはアルカイダ系のイスラム過激組織の活動が近年では記憶に新しいですね。
ISILも現在では支配地域の大半を失っていますが、現在でもイラクやシリアなどではテロが相次ぎ、政情が不安定です。

イスラム教への誤解

イスラム教の生徒

以上、述べてきたように、中東イスラム諸国は欧米などの大国により翻弄されてきたことが分かります。
その結果、現在でも政情不安、社会不安が続き、テロなどが頻発しています。
そのため、イスラム=テロといった誤解が生まれていますが、イスラム教は決してテロを助長する宗教ではありません

第一次世界大戦、第二次世界大戦、冷戦を経て、その地理的要因でたまたま影響を受けた地域が中東イスラム諸国であったのであり、そんな不遇の人々の心のよりどころとなったのがイスラム教であったと言えます。
現状に不満を持った人々を結びつける精神的支柱となったのがたまたまイスラム教であったというだけです。

パレスチナにおける政情不安も、もともとはイギリスの二枚舌外交に始まったことであり、ムスリム支配下では多宗教が共存していました。
他のオスマン帝国の支配下でも他宗教は容認され、平和が保たれていました。

更に言うと、テロなどを起こしているのは一部の過激派の人たち
イスラム教がテロを容認しているわけではありません。

イスラム教の教えを最初に述べましたが、イスラム教はあくまでも行動規範。
人々を幸せにするための教えであり、戦争やテロを助長する宗教では決してないということが分かりますね。

おわりに

今回は、イスラム教の概要とその歴史についてご紹介しました。
イスラム教に対する正しい知識を身に着け、今後日本を訪れるイスラム教の方々にも正しく対応していただきたいと思います。
また、イスラム教の国を旅行する際も、その国に対する理解を深めてから行くと、得られるものが全然違いますよ。

なお、イスラム教の国であるパキスタンに住んでいて見聞きしたことは別記事で記載していきますので、乞うご期待!

パキスタン風景

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